シネマヴェーラの特集「イタリア萬歳!」が始まりました。
今回の特集はとても嬉しいライン・ナップです。というのも、ワタクシが映画ファンになったきっかけはイタリア映画であり、高校生の頃ヴィスコンティやフェリーニに夢中になり劇場通いをするようになったもので、幸運にも当時頻繁にヴィスコンティやフェリーニが劇場でかかっていたので、高校時代にヴィスコンティはほぼ全作品、フェリーニもまとまった本数を観ることができました。
お小遣いで買った「ヴィスコンティのスター群像」という本を穴が開くほど読んだものです。
その後ヴィスコンティは何度か劇場で観ましたが、2004年有楽町朝日ホールの大特集で最後に観てから4年経ちましたので、今回の上映でまた観直したいと考えております。
フェリーニの『魂のジュリエッタ』は高校生のワタシにとっては苦痛以外の何物でもありませんでしたが、今観るとどう感じるかな気になりますし、アントニオーニの『赤い砂漠』は昔ビデオで観ただけですので、今回劇場で観られるはとても楽しみです。
今日は夕方から広東語教室でクラスメートだったMちゃんの結婚式に出席するので、パーティ着を着てシネマヴェーラに行ったら、ほぼ満員でした。すごい熱気です。
ヴィスコンティの『若者のすべて』。
この作品、今は亡きACTミニシアターで観たとき、この劇場は靴を脱いで絨毯の上に座って見る方式でしたけれども、鑑賞中にお尻がダニに食われて観ていてキツかった記憶なんかがあります。
最後に観た有楽町朝日ホールでの「ヴィスコンティ映画祭」での上映では、映画と字幕に数分タイムラグが発生してしまい、台詞と字幕がまったく合ってない酷い状態での鑑賞でしたので、問題のない環境で観られるのは本当に久しぶりです。
『若者のすべて』はヴィスコンティの中では自分にとって上位にこない作品だったのですが、改めて観て、これまでちゃんと観てなかったなと痛く反省。
アラン・ドロン一家が悲劇に向かっていく過程、最後の大悲劇が近付くあたりの描き方が圧倒的で見事で、何度も観ているにもかかわらず、心が揺さぶられました。
終盤、ロッコがスクーターに乗って警察に行こうとするチーロを追いかけ、間に合わなかったシーン、アラン・ドロンにカメラがズームするのですが、このズームはいいなと思えました。『熊座の淡き星影』や『夏の嵐』など、ズームが下品でヤだなと思った作品もあるのですが。
最後、アロファ・ロメオの工場前での、末の弟のルーカとチーノのやりとりがこの物語を総括しており、チーノの恋人が訪ねてきて愛を確かめ合うのも含めて、この一家の光明を感じさせてくれて観ていてホッとする感じるのですが、しかしながら幼いルーカの後姿が光明だけでなく暗い未来の可能性も暗示させていて、その按配が何とも素晴しい。
イタリアの団地が見られる作品。白黒の映像に映し出される団地の並びは美しくもの哀しかった。
ところで、イタリアの団地・集合住宅といえば、エットレ・スコーラ監督の『特別な一日』を思い出します。冒頭の建物を映したショットが凄かった。何もかも素晴しい作品でスクリーンでいつか再見したいものです。
次にエルマンノ・オルミ監督の 『ジョバンニ』。
2001年の作品でこれは初見です。
ルネサンス期のイタリアの武将・ジョヴァンニ・デ・メディチのお話。諸侯が何人か出てくるのですが、作品に出てくる歴史的背景がよくわかっていないので(世界史でやったのでしょうけど、ここまで細かいこと覚えた記憶ない)、ストーリーを理解するのに難儀してしまいました。
公式ホームページに
人物相関図や
歴史的背景の解説ページがあるので、こちらをご覧になってから鑑賞すると良いでしょう。
戦争が恐ろしく幻想的に撮られております。室内のシーンはフェルメールのよう。
冒頭、諸侯や作家など主人公の周りの人物が証言者といった感じでカメラ正面に向かってバストショットで登場し、肩書きと名前のテロップが出て、話出すと物語が始まるというのは、ヴィスコンティの『ルートヴィヒ』みたいですね。
映画はルネサンス期を舞台としながらも、現代のハイテク兵器をつかった戦争への批判を意識してつくられたことを観客に強く感じさせます。
公式サイトにオルミ監督の
「現在、兵士は自分が誰を殺しているか知らないのが当然のことになっている。そして、自分が誰に殺されようとしているのかを。いま、戦争というものに英雄は存在しない。いまや兵士たちには、戦場での能力や戦士そして人間としての高貴な美徳を表現するための実質的な状況が与えられていないのだ。我々の戦争は機械とテクノロジーに支配されている。その“進歩”とは、非人間的な殺傷能力の向上を意味している。
以前にも増してひどい状況になりつつあるが、人間の目に映る像は、もはや人間ではない。倒すべき敵には顔も声もない。その相手ははるか遠くにいて、誰も彼のことを知らない。痛みや憐れみを理解する心は、もはや失われてしまった。その結果、人々は単純な感情しか示さなくなった。それゆえ私たちは激しい憎しみにも愛にも無関心になり、他人と距離を保つことばかりに気を取られている。
科学と技術の進歩は、決して人間性やモラル、そして文明を豊かにしたとは限らないのだ。」
という言葉が載っております。
この作品、ジョヴァンニ・デ・メディチと近代兵器の大砲の両方が主人公といった感じでありました。
イタリア映画特集、出来るだけ通うつもりです。
就業後、シネマヴェーラへ。
今の自分の波長が吉田喜重に合わないので、吉田喜重特集には行かないようにしていたのですが、原作の「嵐が丘」に興味があるので、吉田喜重版『嵐が丘』も観たくなり鑑賞。
(
3月にジャック・リヴェット版『嵐が丘』を観ました)
とはいえ、事前にこの作品を観た人から、「観て憂鬱になった」と感想を聞いたので、観に行くのをちょっとためらったのですが、そんなことは、タイトルが出て音楽が流れ始めた途端杞憂となりました。
地響きのような、風の音のような、低音が強調された音楽は、『ブレードランナー』の冒頭タイレル社の遠景が映し出されるシーンに流れる音楽や、『地獄の黙示録』のシンセサイザー音楽を思い起こさせる重厚な響きで、かつ紛れも無く日本風で、「ああ、この音楽を聴けるだけでも、この映画を観にきて良かった」と思った直後に、音楽・武満徹とスタッフ・ロールが出たので、成る程と思ったのでした。
スタッフ・ロールが終わり、本編が始まると、そこには霧につつまれた幻想的な世界が広がっており、その映像美に引き込まれました。
131分間、ワンカットたりとも気を抜いたところはありませんでした。
全編耽美的な幽玄の世界を、荒野でも室内でも完璧な構図で撮り続けたことに感嘆いたしました。
田中裕子が息を引き取ったシーン、帷子越しに田中裕子の顔のアップが映るのですが、帷子の布と布とのわずかな裂け目から、田中裕子の目元だけが直に映し出されるカットなどは、思わずウーンと唸ってしまいました。
田中裕子と名高達郎が扇子越しに話をするカットも、荒野(阿蘇らしい)で女が歩くくカットも、松田優作と古尾谷雅人が決闘するカットも、何もかも異様に凝っていて、そこからゲージツ映画をつくるんだという意気込みが強く伝わってきて、観ていて多少気恥ずかしい感じがしないわけでもないのですが、それでも観ていて目が嬉しいショットの連続で心地良かったです。
田中裕子は鼻筋が通った日本的な地味な顔立ちが生きた能面のようで美しく、能舞台のようなこの作品にはピッタリと思いました。彼女の立ち振る舞いも能みたいでありました。
一方、松田優作は結構イタかった。大声を出すことしか出来ないのでしょうか。
最後、松田優作と古尾谷雅人が一つのショットの中で決闘しているシーンを観て、ちょっと驚きました。この二人が共演しているとは知りませんでした。二人とも大柄で、決闘の構図のバランスがとれておりました。
高部知子は顔が美しくなく、観ていてガッカリしてしまいました。別の女優さんだったらなぁ。田中裕子の二役でも良かったかもしれません。
正直この作品に関して、エミリ・ブロンテの原作を鎌倉時代に移し変えたことの是非とか、脚本がどうのとかは、ワタシにとって興味の範囲外です。
見事な映像と音楽があれば、それで満足。
それにしても武満徹の音楽、素晴しかったなぁ。この音楽のサントラは発売されてないみたいなので、CDが欲しければ、
武満徹全集を買うしかないのかしら?まぁ、DVDを買えば音楽も聞けるわけですけど。
ところで、右隣の席の男が頻繁にクククッと笑うのに頭にきたから、上映後いったいどういう人物なのかとジックリ顔を観察してやりましたよ。
いったいこの映画のどこが笑えるんだよ?
深刻な場面でも笑い続ける輩、吉田喜重の映画にも来るんだぁ、と(松田優作出演作だから特別なのかもしれませんけど)。
『嵐が丘』を観て、吉田喜重恐怖症がいくぶん和らいだ気がいたしました。